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〔余の剣法〕は、其心理の極致に悟入せん事を欲するにあるのみ。(山岡鉄舟)


  〔心外に刀無き〕を〔無刀〕と言う、〔無刀〕とは〔心を(とど)めずと言う事なり〕。(山岡鉄舟)


  心を(とど)むれば敵有り、心を(とど)めざれば敵無し。(山岡鉄舟)


  〔無刀〕とは、〔心の外に刀無し〕という事にして、〔三界唯一心也〕。(山岡鉄舟)


  〔刀〕に依らずして〔心〕を以て〔心〕を打つ、是れを〔無刀〕と言う。(山岡鉄舟)


  〔武士道〕は、本来〔心を元として形に発動するものなり〕。(山岡鉄舟)


  〔余の剣法を学ぶ〕は、〔心を明らめて以て(また)天地と同根一体の理、果たして釈然たるの境に到達せんとするにあるのみ〕。(山岡鉄舟)


  〔一度思いを決して事に臨む時〕は、心既に〔水火弾刃(だんじん)無き〕なり、〔水火弾刃(だんじん)〕の外にあり、〔水火弾刃(だんじん)〕を既に忘れている、故に〔生死〕をも(また)忘れている。(山岡鉄舟)


  〔生死〕は、〔(その)帰一(きいつ)なる〕事を知覚する事肝要なるべし。(山岡鉄舟)


  〔各自の霊性(真我;心王;大いなるもの)〕は、実に広大無辺の如意宝珠にして、人々本より持ちながら〔妄想(ネガティブ)〕の為に(おお)(くら)まされて真黒の凡夫(ぼんぷ)と成り果てたり。(山岡鉄舟)


  〔無為〕とは、〔為すこと無くして為らざること無し〕の謂い(意味)なり。(山岡鉄舟)


勝ちたいという思いを捨てて無心になった時(勝ちたいという自我の思いが消えて、自然体に成り切った時)、勝ったのは自分ではなく未知の力(神;大いなるもの)のお陰だと心底思う。そもそも空手とは、力で相手を打ち負かすことではなく、相手との調和をとる中での術であり、発祥は沖縄で、当時沖縄は薩摩藩の植民地下にあり、武器をすべて放棄させられた状況下で護身用に生まれた武道であり、しかも沖縄の女性が最初に作ったのだ。(田中健太郎)


普段のなでしこリーグの試合を五輪の一試合と思ってやっている、そういう気持ちでやっていれば(大一番の開幕も)いつもの試合、それは代表に入る前から意識してやって来たことです。(川澄奈穂美)


  「キックの蹴り方などの“型”を、大人が教える必要はないんです。大きなけがや事故につながりそうな危険な行為にだけ注意を与えれば、そのほかは子どもの自由にやらせれば良い。」(川澄守弘)誰かに矯正されることなく、自分の感覚で身に付けた技術は、現在のプレーにもつながる娘(川澄奈穂美)の財産になった。


  奈穂美を初めてゲレンデに連れて行った時、川澄守弘さんはやはり大けがをしないためのポイントだけを注意すると、目の前で一度滑ってみせた。後は「さあ、やってごらん」(川澄守弘)の一言だけ。奈穂美が転倒しようととんでもない方向に行ってしまおうと見守るのみだ。〔教えない指導法〕でスキーを習得した川澄奈穂美は、後にスキー検定1級を取得している。



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